2016/07/05
なぜ勉強しないといけないのですか?
東京都渋谷区にある小学生対象のプログラミング教室スモールトレインで講師をしております福井です。第10回目はやさしく教育論④として「なぜ勉強しないといけないのですか?」です。こちらもやさしくデジタル2016年6月号に掲載されたものが元になっています。
勉強する意味を問うとはどういうことか
「中学受験は本人の意志で始めました」と保護者の方はおっしゃるわけですが、それを子どもに言うと「本当はお母さんがやれって言ったんだよ」とか、「やりたいなんて言ったことない」という子どももいます。
中学受験というのは目標がはっきりしていて、当然希望の中学に合格することが目標なので、「あの学校に行きたい」「あの制服が着たい」などの内発的な動機付けはできます。しかし、だからと言ってみんなが勉強をやるかというとそうではありません。
「算数やって意味あるのですか?」「理科なんて使わないんだけど」と言う子どもたちも出てきます。こうした傾向は、中学生になると反抗期とも重なるのか顕著です。「勉強しなければいい学校に入れない」、「勉強しなければいい会社に入れない」など、大人たちは様々説明するわけですが、「いい学校に入らないとダメなの?」「いい会社ってどんな会社?一流企業でも不正して問題になっているよね?」など、それもまた正論であり、最後は親子げんかになって「先生何とかしてください」などと言われることもありました。
親としては勉強してほしいと考えるのは当然で、勉強して失敗したなんてことはないわけですから、取りあえず勉強はしておく必要があると考えるわけです。しかし、それもある一定期間だけで、30歳とか40歳とかまで勉強や研究をしていますと、「いつまで勉強なんてしているんだ」となるわけで、勉強や学習そのものに価値を見出している人は少ないのではないでしょうか。
こうした問題を考える際、まずなぜ勉強しないといけないのかという疑問が出てくるのかを考えるのが有効です。前回に引き続き苅谷氏の別の本なのですが、以下のような記述があります。
何かに役立つかどうかの判断にしろ、学ぶこと自体の楽しみを求めるにしろ、「自分のために学ぶ」ことを暗黙のうちに措定している。「自ら学び、自ら考える」といった教育改革のキャッチフレーズに典型的に示されているように、学ぶのは「自分」=「私」という構図が大前提なのである(253頁)。
つまり「なぜ勉強しないといけないのですか?」というのは私にとって勉強する意味を問うているので、それに対して、「良い学校へ…」「良い会社へ…」と言ってもそれは「私にとって意味がない」と言われてしまうと、それ以上前に進めなくなってしまいます。では学ぶということは「私」だけの問題だけなのでしょうか。
学ぶという営みにとって、他者とのかかわりが不可欠なことは言うまでもない。学習ということ自体が、すぐれて社会的な営みであることは、ほとんど疑われないほど当たり前のことである。…時間や空間を越えて他者がつくりだしてきた文化を身につける。学ぶコンテンツの創造にも他者の存在が不可欠なのである(254頁)。
学ぶ・勉強するということは一人ではできないことであるのに、学習そのものが個人化され、私の問題とされてきたのです。特に近年の個性重視の教育はそれをさらに加速させたと言えるでしょう。
今、こうした視点から脱却し、私のための勉強を私たちのための勉強とすることで、勉強すること、学習することの意味を定義する必要があります。要するに 「知識の獲得が、個人の内部で完結することではなく、他者とのつながりを求めていくことだという視点」(263頁)を子どもたちが持てるように考えるのが大人の義務です。
大人が大人である所以は、どのように知識を得たら良いのかの方法や過程を子どもよりも分かっていることでしょう。「医者になるためには」「プログラマーになるためには」それぞれ必要な知識が存在しており、それを精査してあげることこそ必要なことです。勉強すること、学ぶことは決して楽しいことばかりではありません。
楽しいから学ぶ、楽しいから勉強するのではなく、学ぶことで、勉強したことで楽しくなるもの、それが勉強ではないでしょうか。そうしたカリキュラムを提供できるように私も日々努力しているところです。
参考文献 苅谷剛彦/西研(2005)『考えあう技術』、筑摩書房
プログラミング教室スモールトレインでは、現在、説明会&体験会を実施中です。勉強のことも、中学受験のこともご相談にのることができますので、ぜひお気軽にご参加ください。次回説明会&体験会は7月10日(日)です。多くの方のご参加をお待ちしております。
*このコラムは、コンピュータリブ社の発行する「やさしくデジタル6月号」に掲載されている内容を許可をいただいて加筆して転載しております。